事務所に帰って資料の整理をしている時、ふと 「江戸時代の古地図には今回行ったトコロはどうなっているのかな」と思ってしまった。 思った以上調べてみなくては、という訳で探してみた。 ∴前編で回ったトコロがコチラの地図に載っている。 関貞寺は昔からあった。瑞忍寺のあるところには 「天道」と書かれ神社関係?の施設があった。 今の国道19号線は本覚寺の西側を通っているが、 昔あった善光寺街道は厳密に言うと本覚寺の東側を通っていた。 片山八幡神社の南側には尾張藩の付け家老であった成瀬隼人正の広大な下屋敷があった。 この人、杁中に今でもある隼人池を作って、その名前に名を留めている。 ついでに言うと、隣にある付け家老石河佐渡守の下屋敷が今の徳川園になったみたいだ。 反対側にはお堀がぐるりと囲んであって一種独特の雰囲気だった相応寺という寺もあった。 それもそのはず、もし善光寺街道を敵が南下してきた場合、 この寺を中心に防御陣地の拠点に早変わりする仕組みだった。 相応寺、今は何処にあるかというと、城山八幡宮の北、あの善篤寺の西側に 在りし日の面影もなく、ひっそりと目立たぬように建っている。 相応寺の東に徳源寺・覚音寺・大竜寺という寺があるが、大竜寺は今はない。 徳源寺と大竜寺の間の小道が今のバスレーンということになる。 最後に相応寺の西に「神明」と書かれた神社は赤塚交差点の北東角にある神明社のこと。 今この神社はというと、建て替えのためにきれいサッパリなくなっている。 ∴次の地図が後編で回ったトコロの地図。 江戸時代は田舎の神社そうろうで、パッとしたところではなかったようだ。 地図の上、すなわち北にある東杉村と中杉村という地名は今でも町名として留めている。 久国寺、善志寺というのは今でもあるが、心入寺という寺は今はない。 今ある尼が坂という坂道は片山神社の横に彎曲して描いてある道がそれだ。 それより昔は尼が坂より坊が坂の方が太くて立派な道だったようだ。 竹腰龍若新屋敷は尾張藩付け家老竹腰家に関係あると思うのだがハッキリとはしない。 どちらにしてもこの屋敷跡に市工芸が建てられたんだな。 江戸時代の長久寺は尾張藩から100石も支給されていた大寺院だった。 併設されていた徳財院という寺は今はない。 ∴オズモールの中にあるM美お気に入りの蕎麦屋。 私の病気以来、一度も足を運んだことはない。 ∴これまたオズモールの中にあったモニュメントの足許。 普通だったらこういうとこには1円玉か何かが積んであるはずなんだが。 ∴今は本堂も小さく、境内も小さなナントも言い様のない関貞寺だったが、 境内の片隅にこんなお地蔵さんがいらっしゃった。 ∴何とはなしに市工芸の校舎を撮った。 桜の咲く頃になると、校庭にある桜が競うように一斉に咲くはずだ。 ∴片山神社へのお詣りを済まし、何かないかと見て回っていたら 資材置場の倉庫の扉にこんなポスターが貼ってあった。 ∴庚申塚の全体像はこんな感じ。 そこらにあるお堂と基本的には何にも変わらないものだった。 ∴地蔵院の境内にあった真新しい地蔵6人衆。 可愛いというよりはメタボリックシンドロームに冒されているようだ。 ∴名鉄「尼が坂」駅の近くの自転車販売兼修理屋という店の脇に お地蔵さんを祀るお堂が極々自然に設置されていた。 ∴その隣には居酒屋でもないのに大きな狸の置き物があった。 何の意味があってココにこうしているのか、考えてみても解ける訳はなかった。
by tomhana0905
| 2007-03-31 07:10
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人生の御負け
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