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達人への道:55

地下鉄発掘:地下鉄東山線「覚王山」駅界隈

∴地下鉄東山線「覚王山」駅から最近設置されたというエレベーターで地上に出た。
ココのエレベーターはベストポジションにあった。日泰寺に向かうメイン道路である
日泰寺参道の入口辺りのすぐ横に出てくる。言うことなしだ。以前は日泰寺参道の名の通り、
仏壇屋や墓石屋、参拝に訪れた人のための食堂なんかが道の両脇を占めていたのに、
最近はどう見ても若者向けというシャレた店やどう考えても場違いなマンションなんかも
建ってきている。そんな中、加藤石材店の店先で面白いモノを見つけた。
ちょっと変わった小さな狛犬が置いてあったが、これはレッキとした売り物。
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写真:量販型でなかったのがせめてもの救い。

∴覚王山と言えば地下鉄の駅名にもなった「覚王山日泰寺」がまず浮かぶ。
1898年イギリス人ウィリアム・ペッペはインド北部のピプラーワーというところで骨壷を発見した。
中には文字が刻まれた人骨が入っており、調査した結果釈迦の遺骨=仏舎利であることが
判明した。その後、その仏舎利はシャム(現タイ)王室に寄贈され、更にはビルマ、セイロン、
日本の各国へ分骨されることになった。その日本において仏舎利の安置場所をめぐって
意見が分かれ調整に難渋したが、名古屋の官民一致の誘致運動が功を奏したのか、
名古屋に新寺院建立の沙汰が下ったという訳。
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写真:正門前から日泰寺を望む。

∴1904年、10万坪の土地を用意して釈迦を表す「覚王」という山号と
日本とタイの友好を象徴する日泰寺の寺号をもつ寺院が誕生した。
1918年にはインドやタイに見られるようなストゥーパ様式の奉安塔も建てられた。
この寺院は成立した時の性格上、日本の仏教徒全体の寺院であり、いかなる宗派にも
属さないという寺院でなければならないと決められた。だから、今でもその運営は
19宗派の管長が3年交代の持ち回りで住職を務めているという。
だが創建当時の情熱も失せてしまったのか、今はただの成り金趣味的な寺院に
成り下がってしまったかのようだった。
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写真:正門前にある千躰地蔵堂。

∴以前、ココへ来るといえばお参りにではなく毎月21日に開かれる「弘法縁日」を
冷やかしに来る(結局この取材で初参詣ができた)ことぐらい。
普段この寺は参拝客もまばらで殺風景な寺なのだが、縁日ともなると車はおろか
自由に歩くことさえままならないほどの混雑ぶりなのだ。
参道だけでなく境内にも露店が並び、近所に住む人だけではなく遠方からも
たくさんの人がやってくる盛況ぶり。これが“市”というものなんだと身をもって実感できるぞ。
余談だが日泰寺には重層門・五重塔・本堂・普門閣・寺務所・鐘楼など至れり尽せりの
状態なのだが、ほとんどが鉄筋コンクリート造で味気ないことこの上ないし、
有り難くも仏舎利が納められた肝心の仏舎利塔は境内とは離れた北東の丘の上に
あるそうで当然私は見ていない。
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写真:千躰地蔵堂の横にあの伊藤萬蔵さんの石碑が立っていた。

∴縁日ともなればココは「ジジババ達の六本木」みたいに人人人
(否、ジジババジジ)がゴッタガエスという表現がピッタリの世紀末的楽園に様変わりする。
そしてここに登場するのが人のココロの隙間に巧みに入り込む商売人。
そんなごまかし半分の前向きな人達が集まって出来たのが「日泰寺参道街」という訳だ。
そんな中、参道沿いに「はんなり」という看板の店があった。
何か見て知っているかのような日本語だけど何となく判ったよう判らないような
不思議な気持ちにさせられた。帰って早速調べたら関西弁でこんな意味だった。
「上品で明るく、華やかなさま」とあった。写真をもう一度見直してみると経営者は
言葉の意味を履き違えているように思った。
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写真:別に写真なんか見せなくてもいいとは思うが念のため。

◆懐かしの味:日泰寺とともに発展してきた門前町覚王山の参道。
その界隈にはお年寄りはもちろんのこと若者達にも時間を忘れて「あぁ、懐かしい味だな」と、
しばし和んでしまう老舗がいっぱいある。まず有名なのが「梅花堂」の名物鬼まんじゅう
1コ100円は昔懐かしい味でいいんが、苦言を呈するなら昔の方がもっと旨かった。
新社屋を建ててからは普通の味になっちゃったみたい。
そして冬でもヤッてる1928年創業の「製氷問屋丸筆」のかき氷は遠方からのファンも多く、
ボリュームたっぷりの宇治金時は480円。しかし、一度期待してワザワザ食べに来てみたが
氷屋の氷にしては粗くてザラザラしてると感じたのは私だけか、
と思っていたらいつの間にか閉店していた。
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写真:前あった場所から勝手に替わってオシャレな店に変わってしまった。

∴ここら辺りは名古屋の古き良き街の風情が今でも残っている数少ないエリア。
日泰寺の東側一帯には四国八十八箇所の粗末な番札を掲げたひなびた地蔵堂から
大小様々なお地蔵様が立ち並んでいて一種独特の雰囲気を醸し出している。
それから日泰寺の正門から北西へ約500m程行くと、狭い階段を下って、
また坂を登ったトコロに地図上では「鉈薬師」がある。しかし、石造りの文人像が
出迎えてくれる正門はここにはない。創建者は張振甫(明代末期の兵乱を避けて
100名ほどと一緒に日本へ亡命した)という明国からの亡命者。
一行の中には漢方の権威がいて食料に関する医学(食中毒の治療)に
優れていたという。徳川義直に「おかかえの医者になるように」と言われたが
それを断って庶民の医療に尽くしたという。
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写真:本堂と言うよりは町茶屋のような感じで艶かしい。

∴この寺は張振甫(千種区振甫町の名前はこの張振甫に由来している)が
ココで民間医療に精を出していたため「医王堂」という別名がある。
本堂内部には荒削りな彫像で有名な円空作と伝えられる像高1.2mの本尊薬師仏のほか
脇侍の日光・月光の2菩薩、十二神将像などが安置されている。
更に境内には画人中林竹洞や山本梅逸などの碑もあるというが、
ワタシ的には一度行ったらいいトコロ。後から判ったことだが、ココの正門と日泰寺は
目と鼻の先。わざわざ階段を下りることはなかった。ちなみに、円空仏は
毎月21日の日泰寺の縁日に併せて公開される。また、鉈薬師の近くに地元の人しか
知らない「山神社」という何とも地味だがほのぼのとした神社を発見した。
これだから巡礼は止められない。
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写真:拝殿の横には「悠仁親王殿下御誕生」というノボリがはためいていた。

◆四観音道:鉈薬師の辺りに今でも残る「四観音道」という旧道は江戸時代、
尾張四観音(笠寺・竜泉寺・荒子・甚目寺)を結ぶ巡礼のための道でもあった。
現在このエリアは名古屋市と地元民とが高速道路をめぐって抗争中。
明らかに地元民の言い分の方に軍配が上がるはずだが、予断を許さない状況みたい。
地名では他に覚王山駅を挟んで観月町、月見坂町という地名が残っているが、
ここら辺は江戸時代の月の名所として藩士や風流人、文士の遊覧の地で
月見の名所であったことからこの名が付けられたようだ。しかし今の月見坂町は
お勧めできない。以前私が訪れた時のブログを読めば答えは自ずと判ってくる。
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写真:現在の月見坂は名ばかりで、普通の住宅街だった。

達人への道:55_d0016669_8381688.jpg【駅での一言】
この駅、月に一度開かれる縁日以外の日はナントも寂れた雰囲気が漂う駅なのに豪勢というか贅沢という人には言えないトコロがある。それはエレベーター。何も年寄りが集まる駅だからスピードがゆっくりしているとか、幅が広いとか、そういう話ではない。ズバリ、エレベーターの数。ひとつのホームの前後に2カ所、それが2倍で2カ所。改札口から地上に上がるエレベーターが1カ所。こんな駅に都合5基もある。(写真は参道側の改札口の向こうに栄方面往きのホームからのエレベーターの出入口が見える)
by tomhana0905 | 2007-01-27 08:42


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